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(1)寺院所在の開拓史について

旭川市江丹別町中央113番地の現在地の開け始めの詳細については審(さだか)ではないが、鷹栖村の一原野として反面山脈を堺にして近文を越えて開拓された所。鬱蒼(うっそう)たる原始林の中に、雲母(うんも)・砂金を採取。或いは熊、たぬき、隼、鷲、鷹等の鳥獣を捕って生活していた様子であった頃、明治31年3月新潟県出身の酒井茂作氏が、札幌胆振郡厚真村より移住。

当寺の敷地も酒井茂作氏の寄進によるものであり、八万九千三百二坪を所有し開拓をした。

その頃、組長(くみちょう)制度が出来て、同年より4年間組長を勤め江丹別地区の発展に貢献。

明治33年10月23日、鷹栖村上江丹別簡易教育所が認可され設置された。同34年6月1日より授業を開始。これも始めは民家を借りていたが、後に酒井茂作氏が敷地を寄付して現在地に校舎ができた。

 明治33年4月に竹内金之助氏が長野県より現在の芳野地区に移住し、1町5、6反歩墾成、菜種(なたね)を植え、34年には2町5反歩を開墾、菜種雑穀を植えたが大水害を受けた。

しかし、明治39年ごろより水田開発の先駆となって開拓に力を尽した。

竹内氏は明治23年に長野県より本道に渡り、札幌、後志方面に渡り、未開地払下げ運動を続け、前田村、又、新十津川村等に移り、養鶏業等に従事し、その後鷹栖村、旭川にあって大洪水に会い困難を極めた様子でした。

 また、浄円寺長八郎という方が広島県より明治17年に本道に渡り、札幌、また岩内郡に住み、農業に従事。

 また千歳村から明治31年、酒井茂作農場の小作人となって江丹別村又六支別(現在の拓北)に移住。明治33年4月には6町1反歩の貸下げを受け、約5年を経て成墾。外に1町6反歩を開墾。また農場未開地5町7反歩を譲り受けて成墾、開拓に力を尽した。

当時江丹別には30~40戸位の開拓者があったという。

 明治36年に本村に移住した西谷金七氏は、石川県の出身で、石川団体の一員として明治27年3月、石狩川河口の花畔(ばんなぐろ)村に移住。10町歩を12年間に成墾。明治34年に未開地930,500坪の貸下げを受け、石川団体約30戸に分割。自身は25町6反歩を所有して移住後これを開墾、更に10町5反歩を開拓。薄荷(はっか)の試作をなした。

当時は四隣鬱蒼のまま尚暗い原始林にして、熊、狐狸が出没し、交通はすこぶる危険な状況であった。その四男玉吉は明治38年3月、80貫の大熊を捕獲し、その上顎(うわあご)の骨は現在も保存されている。又、公共的には組長、伍長を勤め、泰巖寺総代となりその発展に尽力大いなるものがあった。

現在の西里部落、その当時はポンベツ部落開拓の鼻柱として崇がれ、家族と共に現在も尊敬されている。

爾来、年と共に移住する者が増えて、学童の数も明治40年頃には120人位の在籍あり。次第に耕作の面積も増え、主に馬鈴薯、燕麦(えんばく)、蕎麦、キビ等を作り、主食はいも、きび等で、米食は年に2、3度という生活の中で、先住者達は開拓の鍬をふるい今日の基礎を作ったのでした。(宣昭記)

 

 

(2)入植開教の状況

1)説教場初代在勤の履歴(本州の出身地並びに所属寺院との関係を正確に記載)

2)いわゆるワラジ脱ぎから説教場設置に至るまでの事情を地域的社会状態との関連の上から詳述する

 

 下江丹別に在住していた北信順師の息子、北純教師が、明治35年10月に当時上江丹別の開拓に従事していた竹内金之助の住宅を宿として布教を始めた。

 当時は江丹別も開拓当初の事とて住宅も狭く、ただ寝起きをし、雨風を凌ぐ程度のもの。

 その為、心ある信者5、6人で相図り、中心部に位置する酒井茂作所有の地を借り、翌36年4月、15坪の家を建てて説教場としてその基礎を作った。直ちに本山より一貫代の御本尊を下附され、5月に入仏を了ったが、北純教師は都合により辞任していく。

 而して、その年10月までの5ヶ月間、布教は全く途絶。依って信者は供養及び聞法の機縁を失う状況にあった。

 明治36年11月、北純教師に代わり、岩佐祐迨(いわさゆうたい)師が上江丹別説教場在勤を命ぜられ、主官者となり後の泰巖寺の基礎を作り、布教、諸仏供養に専念し、信徒の数も次第に増加していった。

 岩佐祐迨師は明治7年10月12日、滋賀県伊香郡永原村「聞明寺」に生まれる。聞名寺は開基より二一代を経て、父秀学(しゅうがく)、母よし鶴の二男として生れ、兄賢明(けんみょう)が住職を襲職していた。

 岩佐祐迨師は明治29年2月に京都開導学館を終了し、明治30年6月に来道。鷹栖村比布大谷派説教所在勤を命せられ、数か月就職。同年11月12日より空知郡岩見沢村の簡易教育所教員となり2カ年間就職。34年再び旭川に移住。明治36年11月上江丹別に移住した。

 当時、江丹別又六山(またろくやま)にあった説教場を酒井茂作氏の寄付により、市街区画地に移し、後二回の増築をなし、15坪の建物を85坪とした。

 岩佐師は四隣鬱蒼たる森林、冬には6、7尺の積雪の中に点々と散在する信徒を訪ね、又、山道に繁る笹をかき分けて一戸一戸訪ね廻るなど、たゆまざる熱意を以って諸仏供養、開化衆生の理想を実践し、開拓者の友となり、或は親子に死別せる孤独の人の慰安者となり、多くの入植者の信頼をつちかいつつあった。やがて信者は次第に増加し百戸の余を数えるに到った。

 世話人、総代等協議して、明治42年5月に52坪の本堂を新築し、敷地840坪、基本財産49反6畝13歩を安藤鉄吉氏より寄付をうけた。

 此の時、総代西谷金七氏より山林3町9反6畝19歩の寄進があり、基本財産とした。

 而して、本山よりは明治42年10月2日、北海道庁より12月10日𣳾巖寺」の寺号公称の認可を受けたものであり、岩佐祐迨泰巖寺開基住職に推挙され、その後一層の活役を期待されることとなった。

 当時の檀家総代は、酒井茂作、西谷金七、安藤鉄吉、安田明司の四名であった。

 大正6、7年頃は澱粉(でんぷん)の製造、木炭の生産、木材搬出等、江丹別の産業の発展は目覚ましいものがあった。其の事が梵鐘建立の機運を作り、大正8年8月、遂に鐘楼が完成。

 梵鐘は江州長浜鍋徳の調製

 開基住職「岩佐祐迨」は、大正11年9月、20年間の功績を残し隠退したのである。

(宣昭記)

 

 

(3)寺  号

(イ)寺号公称とその由来

 寺号の由来について詳細ではないが、開基住職岩佐祐迨師は本山より明治42年10月2日、道庁より同年12月10に「𣳾巖寺」の寺号公称を許可された。

 岩佐祐迨師は明治33年11月より二ヶ年間教職にあった岩見沢村字泰願という地名が、開拓当時の当地の状況と似たところがあり、泰願は岩佐祐迨の願いであったかもしれない。

しかし、「巖(いわお)」をもうがつ水の力の如く、開拓に当たって心を強く持ち開教した開基住職の心意気があったと思われる。又、当地に安泰な定着をとの決意は、あたかも巖の如く落ち着き、開教に専念しようとする祐迨師の願いが、寺号公称にあたって「泰巖寺」と定めた寺号に込められたものであろうかと思うものである。

 只、第三代住職として推量するだけである。(宣昭記)

 

 

(ロ)山号とその由来

 山号を定めたのは二代住職(川原憲秀)になってからであろうと思う。

 地域の部落名が決まった頃、現在の場所辺りを中央と呼び、江丹別の中央に位置し、学校、駅逓(えきてい)、役場等が集まり、市街地をなしていた。

 その地名に基づき、そのまま「中央山」という山号を用いているものであろうと思う。

山号を知っている者はあまりいない状況である。(宣昭記)

 

 

(4)住  職

在  勤(初代住職に至るまでの在勤の活動状況)

 上江丹別大谷派説教場は、明治35年、北 順教師が初めてこれを設立したもので、位置は、またるくしゅ山、又六士別、現在の拓北山にあり、敷地として酒井茂作氏より二町五反歩、ぽんべつ団体(現在の西里)より二町五反歩の寄付を受けた。建物は15坪。山鼻別院輪番三上良慶が管理者となっていた。

 説教場設立以前は、明治33年上江丹別へ旭川町より移住した長野県出身の竹内金之助が開拓していた江丹別原野、現在の江丹別芳野へ明治35年10月、竹内氏の家を借りて布教を始めたのであった。

 北 順教は、北 信順の息である由。北 信順は下江丹別説教場の在勤を勤めていた。

北 順教明治31年に下江丹別に移って布教に勤めた。

北 順教師が36年5月上江丹別説教場を辞した後、五ヶ月有余の間同所は空白となっていた。

 信者相図り36年11月、岩佐祐迨師を迎えたのであった。この時祐迨師は29歳。妻22歳であった。(宣昭記)

(5)門信徒功労者

開教開拓当初の功労者(門信徒の横顔とその逸話)

●西谷金七

 石川県の出身にして世々農業を営み、代々真宗大谷派である。

 明治27年3月石川団体37戸の一員として、石川河口の花畔(ばんなぐろ)村に移住。江丹別村には明治36年に移住。公共的には組長、伍長となり、学校建築委員となり、その後職務に盡等。泰巖寺檀家総代となり、その建築には最高八拾円を寄付、寺の発展に努力した。

昭和21年92歳命終。

 

●安田明司

 岐阜県の出身にして代々農を生業とし、真宗大谷派の流れをくんでいた。明治31年に本道に渡航し、雨竜郡北竜村に開墾の鍬をふるい、そして明治36年村の有志31戸の長として江丹別に団体移住し馬鈴薯を作り澱粉製造に従事、動力は水車を利用し、明治43年に年額340~350函を製造していた。公職としては、伍長となり、青年会支部長となり貢献する所大であった。𣳾巖寺総代となり建築にはよくその職を全うし、爾今最大の協力を惜しまなかった。団体、部落の為に移住した部落を「雨竜団体部落」と名付け、四千間の道路及び橋梁4箇所を設け、その一つに「安明橋」と名付け、村の発展は安田氏の尽力に負うところ大であった。

昭和27年85歳命終。

●安藤鉄吉

 新潟県の出身にして、明治31年本道に渡り、直ちに本村に移り、開拓の一歩をしるした。当時は旅費に窮し、食料に乏しく、糊口(ここう)なおこれを凌ぐを得ざる惨状に遭いながら、荒寥(こうりょう)たる未開地の開拓に従事。苦難の道を続け、なおその上二年にわたって水害に遭い、苦労を重ねて十町歩あまりを開墾。爾来年を重ね、月を閲し次第に隆昌(りゅうしょう)に赴き、四十年頃には上下(かみしも)の江丹別中有力者の一人に数えられるほどになった。実に「困難汝を玉にす」というは安藤氏の事を云うと言われた。伍長、学務委員等の公職を長年に亘り努めた。

 𣳾巖寺総代となり、その建築には全く自身を省みず奔走し、泰巖寺の基本財産四町九反六畝は安藤氏の寄付する所により、その発展に長く力を尽した。

 昭和の初めに新天地を求めて退村。

 

●酒井茂作

 新潟県出身にして、家世々農を業とす。兄まで十七代の旧家であった。幼にして四書五経を学んだという。明治29年単身本道に渡航し、札幌に於いて古物商を営み、重ねて表具師を生業とす。

 翌30年家族を率いて再び来道、胆振国厚真村に移住開拓す。明治31年3月85万坪を購入し、本村に移住。明治34年には小作人21戸をいれ、現在の市街地は氏の所有地であり60戸分の区画をした。

公職には組長を勤め、学務委員となり、二級町村施行後は村会議員となり、明治35年より駅逓取扱人を命ぜられ、又、私設潅漑溝同盟会長となり、開拓当初より村の発展に尽力するところ大であった。𣳾巖寺の創立以来、檀家総代となり、現在の建物敷地は酒井氏の寄付する所で、爾来、その維持発展の為にちからを尽くしてきた。酒井氏は本村開拓の功労者の一人として長く伝えられる事であろう。現在の小学校校長室に写真の額が並ぶ。初めに酒井氏の写真が掲げられている。(宣昭記)

(6)寺 院 宝 物

(イ)本尊とその由緒

寺の宝物としてほとんどなし。

本尊は木造二尺五寸の大型で、開基住職が迎えたものである。(宣昭記)

聖徳太子二歳の木像は彩色仕上げで、台座には「高岡市」と記されている。明治以後の彫刻と思われる。二代目住職自筆の由来書が残されていることから、二代目住職が迎えたものと推測される。(興文追記)

(ロ)遺  品

開基住職の二男、岩佐正巖氏が書いた「嘆仏偈」、「三誓偈」が残されている。

書院の違い棚の戸袋には氏が書いた「報恩講私記」の文が残されている。(興文追記)

 

 

(7)門 信 徒 戸 数

(時代の変遷に伴う戸数の変動並びに出身県別の状況)

開基住職現本堂建設当時は、約五十戸の檀家あり。石川県の出身者多く、岐阜県出身者、新潟県の出身相次ぐ。大正六、七年当時は、澱粉、木炭の生産多く、江丹別が特に発展した時代であり、百十戸の門信徒あり。石川県、富山顕の出身者が多く、熱心な信者が多かった。

太平洋戦争後、鷹栖村や旭川方面に転出するもの多く、戦後開拓者の入植ありしも経済の変動に伴い、約百故の門信徒も他に転出する者多し。

昭和三十年以後も水田稲作も山間にしては収穫も少なく、都市に移り行くもの多く、三代目住職に至った昭和三十五年には八十六戸の門信徒となった。

山に囲まれた狭い山村で、水稲が殆んどの当地も、収穫は中心地でも鷹栖方面の広い方から見ると、一反あたり一俵以上の減収であり、山地帯ではさらに一俵以上の減収という状況にある。又、一般に若い者の農業を厭う者多く、更に青年が適齢期になっても配偶者が中々当たらない情勢の為か、離農して都会に移る傾向にあり、現在では檀家の数は八十戸となり将来の寺の維持存立が心配される状態である。

出身地は石川県二十五戸、富山顕二十戸、香川県十五戸、その他が二十戸という状況である。

尚、今後も多少は転出する者あり。当地に工業或いは何かの産業が発達しない限り、住民、檀家戸数の増えることは無かろうと思うものである。(宣昭記)

 

 

(8)教 化 活 動 の 現 況

寺のお参り日は毎月六日、二十八日の御命日のほかに、二十二日は青壮年定例日として法座を設け、法話と座談を行う。

西里、中央、芳野、各部落に講中を設け、十二月より四月まで門徒の各家を宿として法話座談等を催す。

同朋壮年部を三十六年に結成し、毎月一回の集まりを持ち、声明練習、法話座談会などの行事をする。

正月二日は初詣りとして壮年部が主になり勤行法話の後、「福引会」を催し、一日を楽しく過ごすことにしている。

三月と九月には彼岸、永代経を勤め、布教使を招き法話を聴聞。六月には太子講・婦人会とし、婦人部の一大活動の日を二日間毎年持つことになっている。九月には三日間報恩講、十一月は三ヶ日御正当婦人会の報恩講を勤め、布教使を迎えて法話を聞く。四月八日は婦人会が主になって釈尊降誕会を催し、法話・幼燈・紙芝居などを行う。

檀家の年忌法要には必ず三十分程度の法話をする事にしている。夏期五月より十月までの日曜日は学童の日曜学校を開き、お勤め、作法、法話、幼灯、紙芝居などを行う。

毎月一回、「泰巖寺だより」として用紙一枚プリント刷りにして発行することにし、法話を載せ、詩や俳句等を募り掲載する。等々種々の行事を持つ毎に、生活の中に仏法を味わいたいと門信徒と共々に行かさして頂いている。(宣昭記)

 

 

(9)附 属 教 化 団 体

昭和三十九年より季節保育所を開設。五月より十月まで六ヶ月間、住職と坊守が地域社会の幼児教育に当り、地域社会の一助にもと八時から六時まで幼児の保育に専念している。

この保育を通して、門徒以外の家庭とも結びつきを持ち、教化の一環となる事を思う。

住職・坊守とも商工会議所の珠算検定三級を取り、学童の授業終了後、寺に於いて珠算教室を開き、地域の希望する生徒を集めてそろばんを教えている。

 最近の親が子供の教育に熱心になってきた時代で、そろばん教室を通して父兄との接触を持ち、人間関係の上から教化の一環となり得ると思う。(宣昭記)

 

 

(10)上 記 以 外 の 貴 時 特 有 の 記 載 事 項

泰巖寺には聖徳太子の御像がある。太子二歳の御寿像である。

越中砺波に道船という道人あり。太子の給仕をなし居たり。夢の告げに感激し、太子二歳の尊像を彫刻し、我が庵に奉安し、奉讃供養を重ねていた。その子竜善その意を受け、二十有余年崇敬申し、その後故あって当寺に奉安(ほうあん)を希(こいねが)った由である。

ゆえに当寺には聖徳太子の御絵像と共に、この御尊像が奉安されている。(宣昭記)

 

 

「鷹栖村史」より転載(大正三年五月二十日発行)

 

   岩 佐 祐 迨 君 上江丹別市街地

君は滋賀県の出身にして明治七年十月十二日、伊香郡永原村聞明寺に生まる。聞名寺は開山より二十一代をを経たる舊刹(きゅうせつ)なり。

 父は秀學、母はよし鶴、君はその二男たり。兄弟九人のうち現存者四人、兄賢明聞明寺住職を襲継し、弟順道は札幌に在勤し、妹一人は他に嫁ぐ。

君は明治二十九年二月、京都開導学館を終了し、三十年六月始めて本道に渡航函館に駐(ちゅう)錫(せき)すること一か月、本村(鷹栖村)字比布大谷派説教所在勤を命ぜられ、居ること三か年、其の間三十一年五月二十一日、聞明寺副住職を申付けらる。三十三年旭川支院在勤を命ぜられ数ヶ月間就職、同年十一月十二日より、空知郡岩見沢村字迨願の簡易教育所教員を嘱託せられ、二カ年間就職し、三十四年再び旭川支院へ在勤し、三十六年十一月、北順教に代わり本村上江丹別説教所在勤を命ぜらる。

 爾来君は鋭意熱心、本村の布教に従事し、説教所の檀信徒次第に増加し、在勤後又(また)六山(ろくやま)の説教所を、市街区画地に移し、後二階の増築をなし、十五坪の建物を八十五坪となし、四十二年十月二日本山より、同年十二月十日道庁より、何れも公称の許可を受け、之を進めて一寺院となし、之を泰巖寺と名づけ、寺格は直ちに内陣に進め、四十三年十二月十七日に其の住職を申付けられ、一寺の開山となるにいたれり。

 君は先天的宗教家として生れ、中道意に充たざる所ありて、暫(しばら)く教育の事に従いたりと雖(いえど)も、其人を感化指導するや、亦其経路を同じうす、而して結局天の使命は、君をして飽くまで宗教家たらしめ、遂に一寺を建立せしむるに至る、君の為に懽(よろこ)ぶべく、地方人の為に賀すべし。

 

   西 谷 金 七 君 上江丹別ぽんべつ(現西里)

君は石川県の出身にして、嘉永五年(1858年)九月二十二日、江沼郡東谷奥村字大土に生まる。家世々農を業とし宗教は真宗大谷派なり。

 西谷家は村内の舊家(きゅうか)にして、祖父源右衛門は肝煎役を勤務せしことあり、父は覺平、母はむめ君はその二男たり。兄弟六人中生存者は三人、妹いさは川畑文七に嫁し、妹とめは郷里にあり。而して君に八男三女あり、長子は夭折(ようせつ)し、二男辰次郎は目下花(ばん)畔(なぐろ)村にあり。

三男三吉、四男玉吉、現在内地に各別宅を構えて分家し、五男善太吉は留萌町にあり。六男寅吉、七男重信、八男秀信及び三女すえ家にあり。長女みさは留萌高見氏に、二女キン本村織田氏に嫁す。

 君は明治二十三年(1890年)三月、石川団体三十七戸の一員となり、石狩河口の花畔村に移住し、二戸分(十町歩)の貸下を受け、全部懇成十二ヶ年間在住し、其間現在地に於いて未開地九十三万五百二十坪を、前田惣右衛門、水上藤次郎、三人の名義にて三十四年六月七日貸下を受く。実は石川団体約三十戸の共同出願なるも、起業上成功年限の利益関係より、三人の名義となしたるものなり。而して該貸下地は成功後四十二戸に分割し、君は二十五町六反歩を所有せり。

 君の本村現住地に移住せしは三十六年中にして、其の以前の開墾は一時之を久保音吉に一任したり。而して移住後孜々矻々(ししこつこつ)、全部これが開墾を了し、更に十二町五反歩を購入し、併せて之が附与を了したり。所有馬匹は二頭、所有地は概(おおむ)ね畑地にして、二、三年前より水田薄荷(はっか)の試作をなしつつあり。

 君の始めてぽんべつ部落に移住するや、四隣鬱蒼、昼尚暗く、熊羆(ひぐま)狐狸、跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)、交通は頗(すこぶ)る危険を感ずるものあり。而して現に四男玉吉は三十八年三月、体重八十貫の大熊を捕獲せし事あり。而して其上顎は今に之を保存せり。

 君の公共事業に貢献するや、組長となり、伍長となり泰巖寺檀家総代となり、同寺院及び上江丹別尋常小学校建築委員となり、又私設潅漑溝二十四名の代表者となり、各其の職務に盡瘁(じんすい)する所あり。而して寺院の建築には八十円を喜捨し、学校建築には壱拾(じゅう)円づつ二回寄付をなし、各褒状木杯謝状を受けたる事あり。

 二男辰次郎君は、日本赤十字社の社員となり、三吉、玉吉、寅吉、重信の四人は上江丹別の育英会員となり、三吉はぽんべつ支部会長たり。又玉吉は輜(し)重輸卒として兵役を終え、三吉は陸軍歩兵一等卒として日露戦役に参加し、勲八等白色桐葉章を授けられ、従軍紀章を下賜せらる。

 君は温良恭謙、資財豊裕、団欒たる多数の子弟を有し、ぽんべつ部落開拓の鼻姐として、家雲益隆昌に赴きつつあり、眞個清福なる家庭と謂っつべし。

 

   酒 井 茂 作 君  上江丹別市街地

君は新潟県出身にして、文久三年一月十六日、南蒲原郡大島村大字上須頃に生まれる。家世々農を生業とし、宗教は累代浄土宗たりしが、目下は真宗大谷派たり。

 父は與五(よご)朗(ろう)、母はいさ、君はその二男たり。兄弟姉妹は六人あり。長男甚作(じんさく)は家を継ぎ、刻下(現在)勇払郡厚真村にあり。酒井農場百町歩を経営し、姉みな郷里にあり。長姉は千歳村に、妹は十勝國芽生にあり。而して君に四男四女あり。長男民之資及び二男は別居して農に従事し、三男豊(ゆたか)は商いに従事し、四男は尋常科を卒業して兄の商業を補佐し、長女サダは旭川町堀氏に嫁ぎ、ほかは皆幼なり。酒井家は西蒲原町杉柳村酒井傳(さかいでん)右(ぅ)衛門(えもん)よりの分家にして、兄甚作に至るまで十七代の舊家(きゅうか)なり。

君幼にして清水善彌(ぜんや)に就き、四書五経を学ぶこと四ヵ年、後(のち)小学校設立に及び之に転じ、十六歳にして卒業し、暫(しばら)く家事を抜け農業に従事す、明治二十二年九月単身本道に渡航し、札幌に於いて古物商を営み、兼ねて表具師を生業とし利する所あり。其の前途の有望なるを認め、翌年四月帰国し、家族四人を率い六月再び来道し、豊平村豊井桂五朗の建屋を譲り受け、家族をして農業に従事せしめ、君は依然として札幌にあり。畜資三年、胆振国厚真村に転住し、二十七年中、佐々木某の貸下地四十五万坪を譲り受け、小作の土人約三十余戸入れ、三十年に至り全部之を開墾せしが、之が為尠(すくな)からざる経費を投じ、殆ど産を傾くるに至れり。

 依って三十年十一月、長崎県人松崎安之助貸下地、本村上江丹別八十五万千二十坪を、兄甚作及び土田平治と共同にて、二千五百円に購入し、三十一年三月始めて本村に移住し、厚真村の所有地は全部之を売却し、三十三年購入地は全部君の専有となし、三十四五年の交、小作人二十一戸を容れ、三十四年秋に二十八万余坪を浄圓寺長八郎他九名に譲与し、三十六年二月に五十八万余坪を、雨竜団体安田明司外(ほか)二十九名に売却せり。

 其の二十八万余坪を売却せる際には、八万九千三百二坪は自己の所有地として保留し、此の内三十四年中、市街地約六十戸を区画し、後その部分を売却又は寄付をなし、刻下二十四町歩を所有せり。此の他所有地は牧場役四十町歩、及び雨竜郡幌加内に於いて、二千五百円にて買得せる九十五町歩あり。

 公職に参与せるは、三十一年より四ヶ年間組長となり、三十五年七月一日より同年十二月まで、引き続き三十八年十月まで二回学務委員となり、二級町村制施行後村会議員となり、三十五年十一月一日よりは駅逓取扱人を命ぜられ今日に至り、泰巖寺檀家総代たること又創立以来今日に至り、此の他私設潅漑溝期成同盟会長たりしことあり。

 君の公共事業に貢献せしは、学校寺院説教所の創立に尽力し、之が建物敷地等を寄付したるを始めとし、上江丹別尋常小学校専属基本財産の設定に就いては、数次上川支庁に往復してその目的を達し、川崎牧場及び上江丹別間の道路設定に就いても極力これにも尽瘁(じんすい)し雨竜団体仮事務所より、中江丹別第八号橋に至る約二千間(幅二間)の仮道路を独立にて開鑿(かいさく)し、日露戦役には国庫債券に応募すること三回に及びたり。寄付行為により賞(しょう)賜(し)を受けたるは、駅逓より雨竜団体に至る私設道路に十圓、上江丹別尋常小学校敷地三回に千二百六十坪、寺院敷地へ市街区画地半戸分、学校最初の建築費六十圓、三十八年学校改築の際百圓、四十一年五月十七圓余り、四十四年七月学校増築の際若干、及び村医診療所敷地百二十坪等を寄付し、数回褒状木杯謝状等を受けたり。蓋(けだ)し君は本村功労者の一人に洩(も)るることなかるべし。

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