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泰巖寺

𣳾巖寺 開基住職

 イワサ           ユウタイ

岩佐 祐迨

 明治7年10月12日、滋賀県の琵琶湖の北の畔、「聞明寺」住職岩佐秀学、よし鶴の二男として出生。長男賢明師、三男順道師がいた。明治29年2月に京都開導学館を終了し、明治30年6月に来道と記録されている。(当時祐迨師は22歳、17歳のテルミを伴って渡道している。翌年明治31年8月22日に長女が誕生している。)

 鷹栖村比布大谷派説教場に数か月、また空知郡岩見沢村の簡易教育所教員2年の職を経て、明治34年再び旭川に移住。そして明治35年4月29日に、四女「き美よ」(あとの第二世坊守)を出産している。(この間に二女、三女を授かっているが、その記録は残されていない。長女と四女の二人の子供を抱えて生活していた頃の旭川での生活は不明。)

 祐迨師渡道の時期を同じくして、石川県出身の北順教師が、鷹栖村下江丹別番外地で寺小屋を開設。翌31年に「下江丹別説教場」が公許され、初代在勤についている。(今の「本龍寺」の前身)

 しかし同35年、父の北信順と交替し江丹別の地を去っていくのだが、その頃、上江丹別の開拓に従事していた長野県出身の竹内金之助氏の求めに応じ、住宅を宿にして定例出張布教を始めている。これが𣳾巖寺の初めの布教の記録である。

 心ある信者5・6人で相図り、中心部に位置する酒井茂作氏所有地を借りて、36年4月、15坪の家を建てて説教場としての基礎を作った。直ちに本山に一貫代の御本尊の下附を願い出て、翌5月に入仏法要を執り行ったが、都合により北順教師は退任していく。

 そして、明治36年11月、求めに応じ、身重の妻と二人の女の子を連れて、厳しい冬の訪れを感じながら、岩佐祐迨師が上江丹別説教場在勤を命ぜられ、主官者となり、後の𣳾巖寺の基礎を作ることとなる。同37年1月26日、雪深い江丹別で(五女)きく代が誕生。明治38年12月1日には(六女)すゑ譽が、同42年2月8には(長男)公巖が誕生している。これと前後して、明治41年12月25日、滋賀県の長男岩佐賢明師から分家除籍し、新しく江丹別村に戸籍を新設している。

 明治38年、「上江丹別説教場」公許されている。同42年新たに本堂を建設。

 明治42年4月2日、新寺建立願を北海道庁に提出、同年12月、「𣳾巖寺」と公称。開基住職に推挙されている。

 大正11年9月、20年間の功績を残し隠退。

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