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泰巖寺

𣳾巖寺 三代目住職

カワハラ  センショウ

​川原 宣昭

 大正13年11月27日川原憲秀、き美よの長男として誕生。昭和7年、半死の重病を患い、一年有余病床にあり小学校時代を二男と同級生として過ごした。

 昭和18年4月中学4年を修して大谷大学予科に入学し、昭和20年3月予科を修了。

 

 直ちに北海道北見市にあった熊部隊に現役入隊したのであった。6月末に幹部候補生教育隊に入隊したが、8月終戦となり家に帰った。その後自坊にて住職を手伝いながら青年会を結成青年男女と談合、日曜学校を作り、学童たちを集めて法話をし、遊び相手となっていた。

 昭和22年4月大谷大学大学部に復学し真宗学を専攻した。クラブ活動としてスキー部に籍を置き、翌23年関西インターカレッジ冬季大会に出場長距離継走に谷大の優勝を飾り、翌24年には耐久に出場し優勝した。又、大阪、阪神、京都の三都市対抗スキー大会に出場し京都市優勝の原動力となった。又、夏は京都大学駅伝競走、近畿駅伝にも競技部より依頼されて出場。数々の戦績を残し、昭和25年3月同学部卒業。直ちに村に帰り、村の中学校に奉職し、初めて教壇に立つことになった。そして、生徒の学科担任、運動部主任となり、村の青年スキー指導にあたり、地元の体位向上に一役を買って三か年の歳月を過ごした。

 故あって昭和28年京都に行き実社会の研究をする。二代住職が病に倒れるや4年余りの放浪に別れを告げ、昭和32年秋に帰山し、住職を助け法務に従事す。

 昭和34年3月に川口洋子と結婚。35年5月二代目住職命終によって三代目住職を世襲する。その後、法灯を護るため青年声明会を作り、37年に壮年会を結成。各部落の家庭の中心である親父連と共に、寺を護る方法や浄土真宗の道を語り合う。

 坊守と共に昭和39年5月保育所の開設に依って地域社会の助けとなって、幼児の教育保育に季節的にも力を尽くすことにし、爾来毎年5月より10月末まで農繁期の季節保育所を、旭川市からの助成を得て、軌道に乗せることに成功した。

又、同35年保護司の命を受け、刑余者の為に力を尽くして社会復帰の助けとなる。

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